ラッピングコーディネーター 五味栄里先生によるラッピング講座。リボンの結び方、箱の包み方、季節に合わせたラッピングやエッセイなど

平家物語


桜の季節は春の嵐の向こうに吹き飛ばされ、今は落ちた花びらにかすかな春をしのぶばかりとなってしまいましたが、昨日堺の空に鯉のぼりが風に吹かれて泳ぐのを見て、季節はすっかり初夏に変わっていると気が付きました。

初夏、幼いころの実家では五月の節句になれば、紫の花菖蒲のもとに五月人形がいつも飾られていました。それは朱色の房飾りが付いた白馬に、颯爽とまたがった義経だったと記憶しています。
その義経の兜は前方中央に獅子(?)の面飾り、その両脇にU字型のカニのはさみのような突き出た形の飾りがついていて、朱の糸が美しいものでした。今まで私が見てきたビジュアルの義経は、ほとんどこの兜と同じものをかぶり、赤い鎧を着ていて「義経スタイル」というのがあるのだなーというくらいの理解でしたが、去年義経ゆかりの平家物語と出会った今は、現存するという国宝の義経の鎧を大山祇神社に見に行きたいとさえ思うようになりました。

昨年のちょうど今頃です。
友人から「平家のセミナーはいかが?」とお誘い頂き、ちょっとだけ聞いてみようと軽い気持ちで御一緒させていただきました。講師の先生はお着物姿のお美しい方で(金子あい先生とおっしゃいます)、ざっくりと平家の物語の由来などを語り、鹿の谷(ししの谷)の段を詳細に原文をもとに読み解いてくださった後、受講生一人一人の文章の範囲を決めて、なんと!「それではご自分の範囲を順に朗読してください。」とおっしゃる・・・
驚天動地の私は隣の友人に「聞いてないよ。」彼女涼しい顔で「あらそうだった?平家を読む会よ、ここは。」というではありませんか。
冷汗が出てくるわ、自分の番が回ってくるまでの緊張たるや、自分で自分が気の毒になるほどガチンコチンになって。人の前で古文を読むなんてムリムリと思いながら何とか凌ぎました、が…読み終った後はなんだか爽快感?みたいな・・不思議な気持ちになりました。恥ずかしいどころか、むしろ先生のおっしゃるご指示の「山に囲まれた山荘で謀議をするのですから、その雰囲気を出してください。」などというとてつもなく難解な注文に対して、真剣にどうしたら山の雰囲気?謀議?と…すっかりとその気になってしまいました。

30人ばかりの受講生の2回目の朗読が終わった後、いよいよ最後に先生の朗読が始まりました。これは本当に驚きました、山荘も謀議も俊寛も酒の宴も目の前でその情景が出てくるような声音と迫力なのです。凛とした先生の後ろには鹿ケ谷の人々がその無念さをにじませてたたずんでいるとさえ感じさせるほどです。
そこから、平家物語にすっかりとはまりました!
琵琶法師が庶民に語った文学のためか、原文は意外に簡単に理解できるのと、それぞれの段が現実にあった事だという実感が圧倒的な迫力で私の胸を打ってきました。清盛も頼朝も義経も物語の中では、会話して、泣いて、憂えて、いきいきとした息使いまで感じるほどの現実感で迫ってくるのです。
源氏物語も大好きでしたが、実際の史実に合った内容が綿々とつづられている重みには、源氏でさえ太刀打ちできないと思いました。

1年に数回しかない授業ですが、とても楽しみでどの段も心に残っております。
中でも「先帝身投」の時のくだりは忘れがたいものがあります。
いよいよ平家の最期が近づいてきた主上(安徳天皇)がおわします船の中の出来事です、主上の船に乗り移って来た知盛は、見苦しい品を海中に捨てさせて船の前後を走り回り、掃いたり、拭いたり、塵を払って自ら船を清めるのです。女房たちが戦況を聞いても「そのうちに見たこともない東男が現れますよ。」とからからと笑った。とありますが、なんと魅力的な人でしょう。最期と決めて身の回りを清めるそのダンディズム、潔さ、余裕、そしてユーモア。男の中の男とはこういう人のことを言うのだと感心することしきりでした。
そして、二位の尼(清盛の妻、時子)が8歳の主上を抱きかかえて「あなた様のご運はつきましたが、波の下には極楽浄土の都が待っていますよ。」と幼子に言い聞かせ、涙にくれる主上と一緒に入水してしまいます。
その時の表現は、「無常の春の嵐が花のような主上のお姿を吹き散らして、人間の悲しい運命の浪が幼い主上の身の上に覆いかぶさってきました。」と、どこまでも美しくまた悲壮感があふれていて、この段の先生の語りの時、私は涙を禁じることが出来ず不覚にも机には涙の小さな海ができてしまいました。ちなみにくだんの知盛は乳母子の家長とともに鎧を二領着て手を取り合って入水したとのこと。
その時の言葉が「見るべきほどのことは見つ、今は何をか、期すべき。」
男らしい、このかっこいい言いよう,
齢三十三と言います。この若さでこの悟り、このような男が現代にいますか?
昔のことなのに今そこで実際に起こっているような錯覚に陥り、登場人物に共感しながら泣いたり、笑ったり、多分琵琶法師の語りを聞いた庶民たちは私と同じような立ち位置で聴き入ったのでしょうね。

今も昔も人の思いは変わりません、浅はかな欲に惑わされて道を外したり、見捨てられて零落してもどこかで助けられたり、たくさんの人の人生が絡まりもつれ合って、人の生きる道は平家の時代から現代まで続いています。
平家物語を読んでいて中から聞こえてくる声は「人の命はいつか尽きるもの、だからこそ、たった一度の人生、悔いの無いよう、生きなくてはね・・・。」こんなでしょうか。
「見るべきほどのことは見つ・・」知盛は生まれた時から彼の周りにあった人も富も地位も自分の命もすべてを失う時に、それらの物のはかなさを悟って、「何だ、こんなものだったのか。」という、心底絶望の境地に達したのかもしれません。その絶望がむしろ死ぬことへの期待に最期の一瞬を輝かせたのかもしれません。
忙しい時間の中で、たまに平家物語を手に取って人生の無常観の中に、自分を置くことも大切なことではないかと、最近しきりに思います。