ラッピングコーディネーター 五味栄里先生によるラッピング講座。リボンの結び方、箱の包み方、季節に合わせたラッピングやエッセイなど

I am Japanese


今は三寒四温という言葉どおり、春が行ったり来たり、そわそわと落ち着く場所を探しているような天候ですね。昨日は寒くて厚いセーターを着ていたのに、今日はベランダの花々の上に日差しが柔らかく注いで、うららかな暖かい日となりました。今日のような暖かい日には外へ出て、寒さで縮んだ体を思い切り伸ばしてみたくなります。

ということで、春めいた日差しに誘われて外に出てみると・・・・
今更!?・・の感はありますが、東京はどこに行っても外国人の多さにびっくりしますね。
私が利用する山手線の中は、多様な言語が飛び交い、子供連れの中国人家族、若い学生風の韓国の軍団、カップルと思われるバックパッカーの西洋人などであふれています・・日本の風景も大きく変わりました。

このような風景を見ていると、50年前の記憶の中の我が家の珍事を思い出します。
私が幼いころ、父は仕事で単身アメリカに参りましたが、父が初渡米する日の朝のことはいまだに記憶に残っております。駅には新聞記者やカメラマンをはじめ、人が山のように集まり万歳‼万歳‼という掛け声の中で父は汽車に乗り、そして一路羽田がある東京に向かいました。駅の隅の方で息子の姿を見て祖母が涙をぬぐっていたのを鮮明に覚えております。
今では信じられない事ですが、外国へ行くという事は、当時では大事件だったのです。
まるでドラマで見る、兵士が戦場に出征して行くような光景でした。

でも、珍事はそれではなく、父が数年後にアメリカから帰国した後のお話です。
私達家族が住んでいる静岡に、はるばるアメリカから一人のお客様がやってきたのです。
そのお客様は父がニューヨークに住んでいる時に仕事もご一緒にして、お世話になったバーマンさんというアメリカ人でした。我が家でそのお客様を囲んで大歓迎会が開かれることになったのです。

その日は朝から大騒ぎです。お玄関や床の間にお正月のような生け花を飾り、日本人形なども飾りました。母はご近所や父の会社の奥様方の手伝いを得てお寿司を作り、お酒の用意をして、ステーキも焼き、クッキーなども焼いたりしての大わらわ。大きなスイカもテーブルの真ん中に置いてありました、また夏の暑い時でしたので、祖父のアイデアで氷やさんに大きな氷の柱を注文してバーマンさんの席の後ろに設置しました。会場は狭い我が家ですので、ふすまや障子を取り払い庭まで見通せるような大きなお部屋にして、ご近所からお借りした座卓を何本もつないで大きなテーブルも作りました。たくさんの人があちこち出入りして、てんやわんやの大騒ぎでした。
しかし、その大騒ぎの中、到着したこの日の主人公を見た時、皆、口をあんぐりと開けてしまいました。見上げるばかりの大男が頭がつかえないように上半身を折り曲げてお玄関に入ってきたのです。そしてガリバーのような大きな靴をはいたまま、上がり框にどんどん上がってきてしまったのです。それを見た父が慌てて静止していましたが、私はなぜ靴を脱がないのか?理解が出来なくて驚き、あまりの巨体に再び驚いて,心の中で「ひぇやー!」みたいな声を上げて見ていました。たぶんこの時、そこにいた日本人は、いや生まれて初めて外人を生(ナマ)で見た人たちは皆、同様の声を上げてびっくりして見ていたと確信できます。

バーマンさんは声の大きい陽気な人で、日本語が分からなくてもあっという間に日本人たちに溶け込んで一緒にお酒を呑み、お食事を共にして盛大な盛り上がりの歓迎会になりました。
でも、さすがにお寿司のお刺身は苦手でお勧めしても一切口になさいません、母のお茶の御点前にも、かしこまって飲んでいましたがあまりの苦さにびっくりした様子で、そのどれもこれもが、日本人たちには反応が可笑しくて、笑い声があふれる時間となりました。
バーマンさんはアメリカから持ってきたお土産を、豪快に大きな箱をエイッと逆さにしてザザザーと皆の前で広げました。それは色とりどりのキャンディー、ビスケット、チョコレート、などの袋入りのお菓子でした。そのころ外国のお菓子など誰も見たこともなく、その可愛さや華やかさに驚き、もの珍しさも手伝って皆、大切に持って帰りました。
そして私には、彼は特別な品を用意して持ってきてくれました。
それは10代の少女向けのファッション雑誌セブンティーンでした。勿論英文なので中身はちんぷんかんぷんで、私にはちょっと大人すぎたのですが、アメリカの少女たちはこのようなお洋服を着ているのか、こんな可愛いお部屋に住んでお姫様みたいにベッドに寝ているの?と、グラビアのその豊かさに目がくぎ付けになりました。(日本でもセブンテイーンという雑誌はそれから10年近くたって刊行されました)後日談となりますが、私がそのバーマンさんからの雑誌を毎日毎日飽きずに見ているので、父が書店に依頼して3か月遅れのセブンティーンを毎月アメリカから取り寄せてくれました。その新着の雑誌を手にするときの至福の時間は、私の少女時代のまさにハイライトでした。

話を元に戻しましょう。
最後のメインイベントはバーマンさんが持ってきた8ミリの映写会でした。ニューヨークの摩天楼の景色、ディズニーランド、高速道路でブロンドをなびかせてオープンカーを運転する女性の映像など見たことない風景が次々と映し出され、父の通訳を通して皆びっくりしてバーマンさんの話を聞いておりました。ディズニーランドの説明は子供じゃなくて大人が楽しむ遊園地という、説明だったと思います。最後にミセスバーマンが登場した時は大盛り上がり!赤い髪のすらりとした美人です。「She is beautiful!」バーマンさんのお答えは「I think so」でした。
50年も前のたどたどしいと言えるような歓迎会でしたが、私たち日本人の精一杯の気持ちは十分伝わっていると、誰もが感じることが出来た夜だったと、懐かしく思い出します。

幼いころの私の故郷の人たちは、外国の事は何も知らない日本人でした、今の時代とは隔世の感があり、その時のことを考えると日本の大きな変化に驚かされます。
果たして日本はこれから未来に向けてどのように外国と関わっていくのでしょうか?
もちろん楽しみでもあり、現代の若者の姿からは若干の不安もあります。
でも一つ申し上げたいのは、「I am Japanese.」と外国人に向かって、胸を張って言える人と国であってほしいと願います。