ラッピングコーディネーター 五味栄里先生によるラッピング講座。リボンの結び方、箱の包み方、季節に合わせたラッピングやエッセイなど
日本の四季の中ではちょっと嫌な梅雨の季節を迎えました。
外のそぼ降る雨を見ていて、今は亡き義父の言葉をふと思い出しました。
義父は山梨の広い農地を親の代から受け継ぎ、稲、桃、養蚕、里芋、ほうれん草など農業を営んでおりました。あるとき、私が梅雨はうっとおしいという言葉をもらしましたら、『梅雨が無かったら、稲も畑もたいへんなことになるんだ・・・こういう処に嫁に来ている人の言葉とも思えん。』と義父の勘気をこうむりました。
若い私はその強い語気にショックを受けて、幼子のように肩をすくめてうなだれてしまいました。私達は普段は東京にいて、山梨へは1年に数回ほど帰る程度ですので、私は冒頭の義父のお叱りのように、農家の嫁としてはむしろ初めて見聞きすることばかりが多くて。
お恥ずかしくお粗末な限りでございました。
養蚕の仕事がいかに重労働なのか、これも初めて知ったことでした。
家の敷地の中に養蚕小屋があり、ストーブを何台も持ち込んで温度の管理をしながら、夜中を通してひっきりなしの桑の葉の補充をするなど、遠目で見ていても、大変なお仕事だという事は十分理解できました。養蚕のぐにゃぐにゃ虫のことを尊敬を込め「お蚕さん」と呼び、丁寧に壊れ物でも扱うように皆で世話をしておりました。私はああいう虫は苦手で触ることもできないので、そのような不甲斐ない嫁を義父はよく笑ってみておりました。
桃の収穫時もこれならば私もできると意気込んでおりましたところ、桃の産毛が体に付くとかゆくて大変だからと、止められてしまいました。皆が桃畑に出て行ってしまい、何もすることがないので、梅雨の晴れ間の青空のもと、家じゅうのありったけのシーツを広い敷地の中に洗濯して干しておりましたら、桃畑から帰って来た義父が、『おっ?!なかなか気が付くじゃないか・・・。』と唯一褒めてくれたのが、その日の私のちっちゃな勲章でした。
その桃は最上級の美味で今まで頂いたことのないほどの、素晴らしい品でした。義父は毎年その桃を私の実家にも送ってくれました。実家の父がその桃を頂きながら、しみじみ『栄里が山梨に嫁に行ってよかったなー。」と申したとか…
毎日のご飯は義父の山梨のお米に決まっていました。
新米は特に美味しくて「お義父さんのお米はササニシキよりよっぽど美味しいよ!」と伝えましたら.ササニシキより美味しいって嫁が言ってたぞと、あちこちで自慢していたそうです。
そんな義父ですが、東京に来るときには颯爽とスーツを着て結構ダンディーに決めていて、『私はご婦人層から、えらく人気があって困ったもんだ。」と嬉しそうにうそぶいておりました、そのお得意の話を主人は殊勝に聞いておりましたが、私はいつも『また始まった!』とそそくさと席を立ってしまいましたが、もっとちゃんと聞いてあげればよかったと、心の中で苦笑いの後悔です。
帰りしなには、自分の息子の安月給への労りの言葉とともにいくばくかのお金を嫁の私に渡してくれました。その他にも季節の収穫物を何度も段ボール箱にいっぱいに詰めて送ってくれました。それらは水が滴るほど新鮮で、美味しくて、何より義父の愛情がいっぱい詰まっている素晴らしいギフトでした。
淋しいことに、その段ボール箱のギフトも絶えて既に20年もたってしまいました。
孝行したくとも親は無しと昔の人は言いますが、つくづく今その言葉の重さが心に響きます。今の私は義父と同じような年齢、そして立場が近づいたせいなのでしょうか?
今になって、昔気質の朴訥な義父とのやり取りの、その裏に見え隠れする宝石のような優しさが、やっと分かるようになってまいりました。
数年前に実は義父の愛したあの地は売りに出されてしまい、蔵も、屋敷も、義母が丹精した花畑も、家のシンボルだった大きな赤松も、まっさらの何もない平地にならされてしまいました。義父が亡くなってからも、その残された屋敷を見れば、たとえ主がいなくとも、夏休みの息子達の遊ぶ歓声や、その壁の角から義父が麦わら帽子をかぶって出てきそうな、なつかしい思い出がいっぱいにあふれてきたものでした。
息子たちもおじいちゃんの家がなくなったと聞いて、それぞれがそっと確かめるために山梨に行ってみてきたようですが、今も誰もそのことは口にしません。
義父との思い出は、若く、至らない嫁としての自分の姿も合わさって、後悔の連続ですが、もし許されるならば、あのみずみずしく若かった頃の自分に戻り、もう一度青空の下で風をいっぱいにはらんだシーツを干しながら、桃畑から帰ってくるお義父さんを待ってみたいものだと、夢のようなことを考えています。
合掌