ラッピングコーディネーター 五味栄里先生によるラッピング講座。リボンの結び方、箱の包み方、季節に合わせたラッピングやエッセイなど

時差を越えて


朝食後のんびり新聞を読んでおりましたら、面白い記事を見つけました。それは、今春卒業の女子大生の失恋のお話でした。
失恋したばかりの彼女は振られた元カレの誕生日がだんだんと近づくにつれ、楽しい思い出がいっぱいの辛いその日を今年はどのように過ごすのかを考えただけで、憂鬱になり悩んだ挙句、友達の助言でロサンゼルスに飛ぶことにしたというのです。その意味は、2週間ほどその地で遊んで、モンダイの誕生日の前日の夜にロサンゼルスを発ち帰国の途に就く。そして、17時間の時差を利用してカレの誕生日を空の上ですっ飛ばして、誕生日の次の日の朝に日本に到着という計画なのだそうです。飛行機の中ならインスタを見ないし、心も平和のままイヤな思いをしないで、時間が過ぎていくという話でした。

私の率直な感想はスゴーーーイ!?でした。
私達が学生のころ、「海外」という言葉には本当に特別な響きがありました。海の向こうの遠い国、言葉も文化も知らない未知の世界、何より憧れが凄すぎて海外という言葉を聞いただけでワクワクドキドキしたものでした。
例えば、留学なんて言葉は、夢のまた夢、手の届かない崇高なステイタス。まさに「エリート」と「リッチ」を表す象徴の言葉でした。(なんだか不動産の広告みたいになっちゃった!)
ところが今の若い世代はロサンゼルスもパリもイスタンブールもいつでも飛行機に乗れば簡単に行けるという感覚で、ある意味「東京」も「札幌」も「ニューヨーク」も同じなのかもと感じました。
古い(?)私達世代には、失恋ごときで(失礼!)わざわざ遠い海外に出かけて時差を作るなんて、全く意識外のお話です。若い世代が持っている意識との見事な違いに驚きました。地球を小さくしてしまった、若い世代のゴージャス感あふれる感覚に、驚きとともに羨ましさまでもひしひしと感じました。

失恋と言えば、以前2015年の7月に「夏の思い出」というタイトルで18歳の私が経験した失恋をエッセイに書いたことがありました。
内容は、東京の学校に入学して故郷とも「彼」とも離れていた私は、夏休みに故郷に帰ることを楽しみにしておりました。ところが、久しぶりに会った「彼」は、なんと!すでにバイト先にいた高校生の女子に心が揺れていて臆面もなく『今日はダブルヘッターだよ。栄里ちゃんとのデートの後○○ちゃんに会うんだ!』言い放ったのです。
ずいぶん正直な言葉ですよね、今さらながら彼もまだ子供で、称賛に値するくらいうぶな男子だったんだと気が付くのですが・・・。
その時の私はあまりの彼のデリカシーの無さに、驚きとともに、相手が女子高校生という事にもイタク傷つきました。怒りのままに即断で心を決めた私は、彼へ別れの言葉を投げつけるとともに彼の制止の言葉にも耳を貸さず、つないでいた手を振りほどきその場から走って家に逃げ帰りました。・・・というような青春の思い出を語ったエッセイでした。
あの失恋した夏は、人の気持ちの危うさや、裏切りに対するどうしようもない悲しさ、周りの人たちの温かい思いやりであるとか、みずみずしい感性を持っていた若さゆえの経験でした。一つ大人の階段を上ったのだと、今でもほろ苦い気持ちとともにしみじみとした感慨を持ってあの夏の出来事を思い出します。

失恋をすると、ほとんどの人が「世界で一番不幸な私・・」と思い込んでしまいます。本人は悲劇のヒロインを演じていて、そして切ない甘美な自己陶酔の中で溺れているために全く周囲が見えなくなり、取り乱して哀れな自分の姿にはなかなかに気が付かないものです。
「この人じゃなければだめ!たった一人の人だ。」と、一番の落とし穴はこの思いこみです。
狭い落とし穴の中で身動きが取れない状態に自分を追い込んで嘆き、悔しさと情けなさに身をよじり、また落ち込む。
よく考えると、こんなに自分の心と向き合い、感情の爆発に流されてどうしようもないほど傷つくなんてことは、実は他で経験ではできない貴重な体験なのですが・・。でもこんなに傷ついているのに、ちゃんと立ち直ることが出来るのも、大切なところです。それも意外なほどの短時間で、あっさりと今まで通りの自分に復帰が出来るという事も本当です。
だから、失恋なんて大人になるためのちょっと高い塀だと思えば、ひらりと飛び越えて着地してピース‼とやってしまえばそれで、オッケイなんです!これは青春をとっくに卒業しちゃった大人の意見です、アシカラズ・・。

件の時差の彼女、時差なんか使って逃げないで、彼の今年の誕生日の時間の中で思いっきり泣いてつらい思いをしながら、この恋を卒業したほうがいい思い出となって、ずーっと心に残るような気がするんだけどなー。よけいなお世話ですね。

最後に素敵なお話を一筆添えます。
2015年の「夏の思い出」のエッセイを書いてから2か月くらい経った頃でしょうか?
1通のメールが私に届きました。
『メールを出すことにとても迷いましたが、送信します。私はエッセイに書かれていた無粋な男です・・・。』と。何十年という時の流れを越えてやはり彼も、私のことを覚えていてくれたのです。
「無粋な」とは・・小さじ少々ほどの罪悪感とユーモアをにじませた、何とお洒落な書き出しでしょう!あのまっすぐに正直でうぶな若者も、たくさんの経験をして素敵な大人の男になっていました。私もすぐお返事のメールを送りましたが、やり取りはその1通のみ、彼からのその後のお返事はありませんでした。
そこも、なんだかこの青春の手痛い思い出のフィナーレとしては、素敵な形に収まったような気がいたします。いま、窓からの冬空の曇天を眺めながら、私の想いは青春の若さ溢れるあの夏空の下の一瞬に帰っていきます。
無粋さんはこのエッセイもご覧いただいているのでしょうか・・・・?