ラッピングコーディネーター 五味栄里先生によるラッピング講座。リボンの結び方、箱の包み方、季節に合わせたラッピングやエッセイなど

彼岸花のランウエイ


今年は残暑が厳しく、いつになったら涼しくなるのかしら?などと思っていたら、ある日突然「はい!季節変わります」とばかりに、秋がいきなりの態で登場しました。
秋と言えば「彼岸花」、今は「鬼滅の刃のお花」と言った方が通りがいいかも?夏の終わりの花なので、今はすでに枯れてしまいましたが私の好きな花です。この季節に地方の出張がある時は、汽車の窓から一生懸命に彼岸花の燃えるような赤を探します。
ところが今年、田んぼのあぜ道などを好むこの花が、東京の真ん中でもちゃんと咲いているのを見つけて驚きました。

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最初は近くのマンションのお庭で見つけました。(12)一つ見つけると、次々に公園の中(3)川のほとり(4)など彼岸花を発見しました。見つけるたびに嬉しくて、がんばっているね‼と声を掛けたくなります。
でも次の日には(567)このような調子でぽきんと折られていたり、踏まれていたりして無残な形になっていることもしばしばあり、悲しい思いをいたしました。彼岸という名前のイメージが悪いのか、根には毒を持つという由来が嫌われるのか、子供のいたずらか、残念なことです。

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私がこの花を好む理由は、懐かしい思い出があるからです・・・
故郷の私の家の裏には、向こうの際がわからないほどの広大な水田が広がっていて、そののどかな風景には季節ごとの色がありました。冬枯れの茶色の稲株が残っている、でこぼこした土地は子供たちの遊び場となり、春はレンゲの花が一面に赤紫の絨毯を敷き詰めたように咲き、初夏には青々とした稲が風になびき、夏の終わりには稲穂の金色の豊かな実りが青空の下でさわさわと音を立てます。その鮮やかな色の思い出の中でもひときわ心に残っている風景があります。

その広大な田んぼの真ん中に、1.5mほど高さがある為に、一本だけ目立つあぜ道がありました。それはSの字型に大きく湾曲して遠い向こうの際まで続いていました。上は踏み固めて白くなった道が付いていてその道幅は人が一人通るのがやっと、という細さでした。家から歩いて人家の角を曲がると、突然目の前に田んぼが大きく開けて、道は急に細くなり、そのあぜ道につながります。
私が10歳くらいの頃でしょうか、秋の始めのことでした。
外遊びにも飽きて田んぼにふらふらと迷い出た時、目の前に広がった風景を見て子供ながらに、まさに言葉を失いました。
最初はそのあぜ道が燃えている!と思いました。真っ赤な一本の道が炎のように燃え上がり遠くまでS字の形を描いて伸びているように見えました。それは、あぜ道の両側の、のり面の下から上まで彼岸花が隙間の無いほどびっしりと咲いて、あぜ道の全てを覆い尽くしていたのです。周りの田んぼの暗い色とのコントラストが見事で、その真っ赤なS字の一本道の風景は今でもはっきりとその映像が心に残っております。あまりの美しさにお姫様の道だ!と、膝まであるたわわに咲いた無数の彼岸花をかき分けるように、お姫様気分で何度もその道をうっとりとして行ったり来たりしました。

それにもう一つおまけの思い出が付いております。調子に乗って歌を歌ってお姫さまごっこをしていましたら、小さな茶色の「蛇ちゃん」がくねくねと彼岸花の中から眼前の足元に出てきて道を横断して彼岸花の中に消えていきました。その瞬間、調子に乗っていたお姫様は一瞬固まった後「ぎゃーあーー」と悲鳴を上げて一目散に彼岸花を蹴散らすように、逃げ帰りました。その後「蛇ちゃん」が怖くてすぐには行けませんでしたが、しばらくしてこわごわと、お友達を誘って行ってみると、あの鮮やかな花の道はすっかりと茶色の土手道に変わり。寒々とした稲を刈り取った後の風景が広がるばかりでした。お友達にその彼岸花の道がどんなに素敵なのか散々語って連れてきたら、この変わりよう・・・
お友達に合わす顔もなく呆然自失の私でした。
最後の結末はどうであれ、今ではあれは彼岸花のランウエイだったと思い出すたびに、その美しさに心の中で密かな拍手を送ります。時が移り、時間が私自身を変えても、幼い時の色を伴う鮮烈な思い出は、色あせることない赤の思い出として残っています。

ちなみに数年前、久しぶりに故郷を訪ねた折、またあの田圃とあのあぜ道に会いたくて、故郷の家の近くまで参りました。知ってはいましたが、故郷の家は壊されて枝が門の上にかぶさるようにあった大きな槇の木も無く、思い出の中の懐かしい小さなかけらさえ見つけることが出来ませんでした。落胆と空しさを心の中で鉛のように抱きながらも、「田んぼを見てから帰ろう‼」と、気を取り直して角を曲がりましたところ、何と、本当に驚きました。あの広大な田んぼがすっかり跡形もなくなり、民家がびっしりと建ち並び、太い道路が通り、車が行きかう、ただの埃臭い街並みに変わっていました。
心の中の鉛は取り出せないほどのもっと深い深い底に沈んでいきました。
だから秋になると、決まって彼岸花が心の底の鉛の陰から、スーッと茎をのばし鮮やかな赤の花を咲かせます。『あの風景は死んでしまったけれど、でもちゃんと思い出してあの美しいランウエイを・・』と。
故郷は遠きにありて思ふもの・・彼岸花を見ればこの言葉を決まりのように思い出します。